おさるの日記

感じること、思う事

AIが親になったらいいのになと想像する

昨年だったか、「親ガチャ」というネットスラングが流行っていましたね。

 

親には当たり外れがあるという、親をやっている者としては非常につらい言葉ですが、実際そういうこともあるだろうと思うだけに、複雑な心境になる言葉です。

 

経済、階層、知識量や親としての力量など、様々な点で差はあるでしょう。

 

そんな風に親に当たりはずれがあるのは、親が人間だからです。

 

例えば「親」が「AI」だったらどうでしょうか。

生まれた子供の特質に合わせ、最適なAIが親として与えられるならどうか。

 

認知の歪みも、人格に障害もない。親としての見栄も虚栄心もなく、ただその子供がその子供として成長できるように全力でサポートする。

 

心身ともに少しの変化も見逃さず察知し、その都度適切な処置を施し、保育者であり医者であり心理士でもある。

 

子供一人ひとりに与えられるので、「親ガチャ」などという言葉は存在しない。兄弟間の親をめぐる争いもない。

 

かと言って神様のような親ロボットではだめなので、人間的な喜怒哀楽もプログラミングしておくとよい。喜怒哀楽の表現方法も、子供に合ったものにしておけば害はないだろう。

 

そういう最適ロボットに育てられた人間は、どんな大人になるのでしょう。

 

しぶとさや強さがなくなるのではないか、とか、不自然に脆弱な「良い人」になるのではないか、とか、いろいろ反論も出ると思いますが、私は案外普通に育つのではないかと思うのです。

 

不適切な親に精神を破壊されることもなく、もちろん虐待などあろうはずもなく、まっすぐに健全に、その子なりの力を持って、すくすくと育つのではないでしょうか。

 

最適な環境の中で適切な対応をする親がいて、それでもし歪んだ大人になるのなら、それは遺伝的な問題が原因なのではないのでしょうか。

 

何をどう考えても、不適切な親がただ「人間である」という理由だけで、AIよりも優れているとは思えません。

 

人間らしい肉体と体温を持ち、声や表情も人間そのものなら、それはもう親として「人間以上」と言えるのではないでしょうか。

 

何百年も未来には、

「昔々は、人間が人間を育てていたんだよ」

「え~! うそでしょ!」

なんて会話が普通になるかもしれません。

 

親AIを作るとなると、今後どのくらいの時間がかかるのでしょうか。50年? 100年?

 

早くできてほしいものです。そうして親によって不幸になる子供が一人でもいなくなることを願うばかりです。

 

能力の差について思うこと

 

昨日に引き続き「能力、能力」と書きますと、「自分をどれだけ賢いと思ってる?」と誤解を受けそうで怖いのですが、そんなつもりも能力も毛頭ございませんのでご了承ください。

 

バカな人とは?

 

「バカな人」とは、どういう人のことを指すのでしょう?

 

学校や職場、ご近所関係と、関わる場所によってその定義は違ってくると思いますが、簡単に言えば「幼い人」と訳せるのではないかと思います。

 

「幼い」とは、小学校に上がる前の5,6歳の幼児というイメージ。見た目は大人ですが、頭の中は「未発達」の文字が目立つような人。

 

集中力が低い

理解力・想像力が低いことで誤解や思い込みが多い

物事を俯瞰的に見ることができず状況判断ができない

言語能力が低いため癇癪を起しやすい

などなど…

 

知的障害ではないけれど、たぶん知能指数は低いのではないかと思うのですが…どうなのでしょう。

 

仕事ができないことで「バカ認定」されてしまう場合もあるようですが、それは仕事の内容によりけりで、例えば単純作業が苦手など、ある特定の仕事ができない場合は違うと思います。

 

発達障害気味といいますか、ほかのことには秀でた能力を持っている事もあるので、「バカ」の範疇ではないんじゃないかなと。

 

幼い人

 

さて問題の「幼い人」ですが、実に対応が大変です。「大人」として接しなければならないけれど、頭の中は子供なんです。

 

「こうだからこうなる、なぜならば」といった論理展開に付いてこれないので、説明は極めて単純な表現でなくてはなりません。でも単純にできない事柄も多いので困るのです。

 

順を追って説明しようとしても、「くどい」「細かいことばかり言う」などと怒り出したりします。結果「こうしてください」とこちらが決めることになるのですが、そうすれば後になって「こんなことは聞いていない」と怒り出したりもするのです。

 

酷いクレーマーとは、こういう「幼い人」に多いのではないかと思います。

 

説明しても理解できない。理解できないから端折ったことしか言えない。誤解や思い込みも多いので言った言わないでもめる。そうして最終的には「相手が悪い」と結論付けてしまう。

 

理解力の低さからくる危険性

 

理解力や集中力が低い人には「簡単な言葉」+「短い文章」で伝えないと理解してもらえません。だから会話として成り立つ分野も限られ、複雑な問題は扱えません。

 

したがって会話の内容は、目の前で起こっている事実とメディアで扱っているようなものが多くなります。つまり、知り合いの噂話と芸能界の話です。

 

でも、それでいいのだと思います。

 

非常に差別的な発言になることは承知していますが、理解力の乏しい人は複雑な問題に触れないほうがいいのではないかと思うのです。

 

たとえ政治や経済など複雑な問題に興味を持っても、相手の言うことを単純に信じてしまったり、極端な方向に進んでしまったりする危険性があるのではないかと。

 

そしてその最たるものがテロなんじゃないかなぁ…なんて。

 

配慮とは何か

 

人間のあらゆる能力はグラデーションのように広がっていて、必ず優劣があります。そしてその差は多少の変動はあるものの、その人の努力でどうにかなるようなものではなく、生まれつきである可能性が高いと言われていますね。

 

だからこそ配慮が必要で、能力に合わせた対応が必要なのだと思います。

 

でもねぇ…振り返ってみると小学生の頃からずっと、そういう「幼い人」への配慮と気遣いとで、なんだか理不尽な思いが込み上げてくるのです。高校と大学以外は疲れる毎日だったなぁって。

 

自分がおかしいのか?と悩むことも多かったですが、会話の合わない人達と一緒にいたストレスだったんだと今では思います。

 

「できない人」への配慮は求められるけれど、「差があることからくるストレス」には何の配慮もないってことが、なんだか理不尽だなぁと思うのです。

 

どちらも子供の場合は同じ配慮が必要なんではないか?と思うのですが、なかなか難しいのでしょうね。私でも疲れるのに、高IQの人たちは尚更だろうなぁと、本当に気の毒に思います。

 

公立学校の「ふきこぼれ問題」は、なにも教科の問題だけでなないんです。生活全般の問題なんですよね。

 

岡田斗司夫「読解力の低下」

 

岡田斗司夫氏の「読解力の低下」23:58以降5分間

 

理屈の話についてこれる人とそうでない人の差が開いているのではないか?というお話です。面白いので貼っておきます。ご参考まで。

www.youtube.com

 

母と絶縁した話

互いの論理思考能力に差がありすぎると、たとえ親子でも付き合っていくことは困難です。

 

「○○の差」という時、それが「知能」のこととなると急に「上から目線」と思われるので厄介なのですが、別に私は自分のことを「頭が良い」などと思っているわけではありません。数学が苦手で、言葉がするすると出てくるほうではないので、IQはそれほど高くないと思います。

 

<IQが20違うと会話が成り立たない>という話題がネット上にたくさん出ていますが、会話が成り立たないというよりも、誤解や曲解、思い込み等によるトラブルが発生する可能性が高くなる、ということだろうと思います。

 

<知能>=<論理思考能力>

 

相手が話している内容を正確に聞き取り、相手にわかるように筋道を立てて言葉で説明をする能力。この力が未発達だと、なかなかお互いの話が通じず、曲解・誤解が生じやすい。

 

AだからBであり、Cである。

そう考えるのは…だからだ。

 

会話するもの同士の論理展開能力が同程度でないと、円滑なコミュニケーションは無理だろうと思います。

 

論理思考能力が低い人の会話を一言でいうと「感情的・刹那的」となるでしょうか。

 

何の根拠もなく思ったことをそのまま発言するので、会話が終われば自分が言ったことはすぐに忘れ、意見もその都度コロコロ変わります。そのため始終「言った言わない」問題が持ち上がります。

 

話の内容を正確に理解することができないため思い込みで解釈してしまい、コミュニケーショントラブルが多発します。

 

始終トラブルが発生するにも関わらず、互いに「すぐ忘れる」という得意技を持っているので、人間関係は破綻せず、継続していく場合が多いように感じます。

 

こういう人を相手に筋道を立てて話そうなんてしようものなら、理屈を捏ねているだけと思われたり、攻撃されていると感じたりするらしく、なぜだか「こちらが悪い」という結論が導き出され激しく反撃されることも多いです。

 

一体、どうしたらいいのか…頭を抱えてしまいます。

 

「相手のレベルに合わせて話さなくてはならない」と言われるけれど、日常生活の中でそんなことを続けていると、こちらがストレスで倒れそうになります。

 

これが他人なら関係を断てば済む話ですが、親子となるとそうもいかないので非常に厄介です。

 

何を隠そう、私の母親がまさに「論理思考能力が果てしなくゼロに近い人」です。

 

せめて穏やかな性格ならばいいのですが、無駄に気が強く、情緒不安定な人間なので、やたらと他人を攻撃します。

 

いやな発言は聞きたくないと言うだけで、「攻撃された、馬鹿にされた」と勝手に誤解し猛反撃にあいます。

 

「お互いに言い分はあるので、どちらが良い悪いの問題ではない。私たちは感覚が違いすぎるだけ」と何度言ってもわかりません。一旦「攻撃された」と思い込むと変更がきかないようです。「お母さんの言うとおりね」とニコニコしていないと気が済まないのでしょうか。

 

あなたは昔はもっと「大らか」だったと言われました。

 

母の言う「おおらか」とは、母の言うことをフンフンと聞き、うるさいことも言わずやり過ごすことと同義なんだそうです。

 

何と勝手な言い分だろうかと呆れますが、昔は子供だったからそうするしかなかっただけです。

 

家にいるしかない非力な子供が、親の愚痴や子供に対する暴言を黙って聞いているのはどういうことか…そういうことに想像を巡らせることができない人なんでしょうね。

 

「子供はあなたが思っているほど馬鹿ではないよ、周りの状況や感情を考えて行動するんだよ」と言うと、「私は子供ころ、そんなことを思ったことも考えたこともない。だからそれは嘘だ。そうじゃなかったら私が馬鹿ってことなのか!」

 

もう、うんざりです。

 

確かに、私にも非はあります。

 

ついつい、「だからねぇ…」とあきれたような物言いをしてしまうことも多いです。何も言わず無視することも、嫌味を言ってしまうことも多かった。母としては面白くないのはわかります。

 

でもねぇ、じゃあどうしたらよかったんでしょう?

 

そう思わないことに「そうだね」と合わせ続けたり、他人を攻撃する暴言を黙って聞いていればよかったのでしょうか。

 

子供のころから幾千幾万回と繰り返されてきた我慢ですが、もう私も中年と言われる年になりました。善悪の感覚が大きく違う、話の通じない相手と対峙することにほとほと疲れました。

 

したがって今日、母とは縁を切りました。

危篤にでもならない限り、もう会うことはないと思います。

 

これを「酷い」と感じる人がいるならば、その人はきっと素晴らしいご両親に恵まれたのだろうと想像します。

 

「親ガチャ」なんて嫌な言葉がありますが、親にものすごく苦労する人と、そうでない人の差は確実にあると思います。

 

私も人の親。子育ても失敗だらけです。人のことをとやかく言える立場ではありません。母が母であるのも、母自身の責任ではないと思っています。そんな脳を持って生まれてしまったんだと気の毒に思っています。そして繰り返しますが、私にも非はあります。

 

でももう気力が持ちません。

 

これからは母に振り回されることなく、自身の家族を大事にし、心穏やかに過ごして行きたいと思っています。

 

さようなら、お母さん。

 

配偶者は同じ年齢の方が良いのではないか?…について 

芸能界では親子ほどの歳の差夫婦がたまにいますが、10歳までの差なら一般人でも普通にありますね。でもこの「年の差婚」、当たり前ですがメリット・デメリットがあります。

 

年齢が高い方が年収が高いとか、精神的に落ち着いているとかいろいろあると思いますが、最大のデメリットは「年齢が若い方にとっては、配偶者が常に自分より高齢である」という事です。

 

「当たり前じゃないか!」と聞こえてきそうですが、でもこれ、結婚する時には意外と気が付かない事なんです。親子ほども差があると別ですが、10歳くらいまでだと、それでどうなるのか案外わからないものです。

 

私事になりますが、私たち夫婦は8歳の歳の差があります。 

結婚した頃は特に何も思わなかったのですが、自分が40代になった頃から「一体私は幾つなんだろうか?」と思うくらい、気分的に老け始めました。というのも、心配事の内容が、自分の実年齢からどんどん離れていくからです。

 

40代と言えばまだまだ気も若く、元気な年齢だと思います。

ところが夫はすでに50代。健康面でも不安が出てきたり、精神的にも体力的にも下降線をたどる年齢です。仕事でも「定年退職」が視野に入ってきます。

 

そうなるとお互いの健康がやたらと気になったり、年金はどうするとか、預貯金は足りるのかとか、まるで老人のような心配事が増え、気分的に全く「実年齢」を実感できないのです。自分が50代になると増々その傾向はひどくなり、早くも互いの就活を始める始末。

 

逆に夫の立場になって考えれば、その時々の年齢で起こる不自由を、配偶者に理解してもらえないのは寂しいだろうなぁと思うのです。何でも8年後に実感するという時差がありますからね。  

 

私はバイト兼業主婦なので、我が家の収入は夫頼み。だから余計に夫の年齢に引きずられるのかもしれません。共働き夫婦なら、収入面で不安がないだけでも随分と違うような気がします。妻が年上の場合も、また思うことは違うのかもしれませんね。 

  

いずれにしても、個人的には夫婦の年齢差は、3歳くらいまでの方が良いのではないかと思います。

子供時代の文化も同じで話がズレることもないし、同じように歳を取っていく方がいいのかなぁと思たっり。

 

無いものねだりなんですけどね…。

 

夫婦不和に伴う「子供の連れ去り」問題その2…子供を持つということ、その辛さと苦しさ。 

夫婦がこじれるだけでも、子供にとっては負担は大きい。その上、片方の親が突然いなくなる。そんな事態は避けたいと誰もが思うだろうが、感情が言うことをきかないのが人情というものだ。

 

私の周りには離婚者がけっこういるが、その中で印象的だった例が1つある。

 

夫の借金が理由で離婚した、当時30代の夫婦だ。

借金は高額で、妻の両親が購入したその夫婦の自宅が抵当に入っていた。もちろん妻は知らないことだ。1年近くの裁判を経て離婚。その時一人娘はまだ2歳。

 

但し、借金の原因は夫の脳機能障害が原因だったことを付け加えておきたい。

事故による後遺症で、不必要なものを買い込んでしまう習慣が付いてしまっていたようだ。

 

親権は夫が持ち養育費の責任を負うが、娘は妻とその両親と同居すること。夫が定期的に娘と会う事を互いの条件とした。

 

ところがこれがうまくいかなかった。

離婚した時、娘は物心がつく前。たまにしか合わない父はもはや、知らない男と同じになってしまっていたのだ。

 

裁判中はもちろん父親には一度も会っていない。1年近く全く合わず、父親の話も聞かなければ他人と同じになっても仕方がない。

離婚後、元夫が娘を迎えに来ても、娘は泣いていやがる様になってしまった。もちろん妻側がそう仕向けているわけではない。これは父親として相当に辛かったに違いない。

結局娘との面会は取りやめとなり、元夫は娘の運動会や学芸会を、こっそりと影から見守るだけとなった。

 

夫の母親は「養育費をただ払っているだけの父親になってしまった」と嘆いているらしい。母親の嘆く気持ちも良くわかる。お金を払うだけの存在が、果たして父親といえるのか? 悩ましい問題だ。 

 

娘が大人になった時、父親と会いたい、話がしたいと思うようになるのだろうか。なるかもしれないし、ならないかもしれない。それは娘の気持ち次第なのだろう。 

 

<嫌なら離婚したらいい> そんな言葉をよく聞く。

 

確かに子供がいなければそうだろう。嫌なら離婚すればいいのだ。いがみ合って一緒にいるくらいなら、いっそ他人になってやり直した方が有意義な人生が送れるかもしれない。

 

しかし子供がいると話は全く違ったものになる。いがみ合うくらいなら別れた方が良いのは同じだ。しかし、それぞれ他人になりきることだけは絶対にできない。

 

かつて夫婦だった男女が、新たな人間をこの世に送り出してしまった。

その新たな人間<子供>にとっては、両親との関係を完全に断ち切ることはできない。

物理的には出来たとしても、気持ちの上でできないのだ。

 

それは愛情だけではない。

憎しみであれ、怨みであれ、関係を断ち切りたいと願うのであれ、子どもの心に何らかの感情が付きまとうことに違いはないのだ。

 

親は子供に対して責任がある。

子供が生まれながらの狂人でない限り、親は子供に対して責任があるのだ。

 

子供をもつ事が「リスク」だとするならば、この「責任」こそが最大の「リスク」だろう。自分が死ぬか、子どもが死ぬか、どちらかがこの世を去ってしまうまで続く親としての責任。これほど大きなリスクが他にあるだろうか。

 

だから結婚相手は重要なのだ。

この人が自分たちの子供の親としてふさわしいのかどうなのかを、見極めなくてはならない。結婚で最も大事なのは本当はここなのだ。遺伝的にも感情的にも経済的にも、自分は自分たちの子に責任を持てるのか、相手は責任を果たしてくれるのか。

 

しかし現実は、そこまで深く考えて結婚をする人はそういない。自分だってそうだった。勢いがなければ結婚なんてできない。あれこれ考えれば考えるほど、婚期は遠のくものだ。

 

互いに譲歩に譲歩を重ね、離婚に至らないよう最大限の努力を続けるしかない。それには自分が100%では無理だ。だから自分の半分を捨てるしかない。子供が産まれた瞬間に、自分の半分を諦めるしかない。

 

それが嫌なら、あるいはできないのなら、子どもを持つべきではない。

 

子供を持たなくても有意義な人生を歩むことはできる。そうした方が合っている人もいる。誰も彼もが結婚をし、子どもを持っていいものではないと私は思っている。

 

もちろん私自身、子どもを持ってよかったのかどうか疑問に思うことは多々ある。遺伝的に、心情的に、経済的にも、私は立派な親とはお世辞にも言えない。

そのことで私はずっと苦しんできたし、これからも苦しむだろう。

 

もう一度人生を送れるのだとしたら、私は「母」という人生だけは絶対に選ばない。

 

確かに幸せもある。楽しいこともある。

でもそれを帳消しにするくらいの辛さと苦しさがある。自分以外の人間を、一生心配し続けることはそれほ辛いことなのだ。自分に向けられる子供の思いを受け止め続けるのは、想像以上に苦しいことなのだ。

 

子供連れ去り問題を読んで、連れ去った親も、連れ去られた親も、それぞれに辛く苦しい思いを抱えているのだろうと思うと、その重さに涙がでる思いがした。

 

法律で人の感情は解決できない。でもだからこそ法律はあるのだ。

共同親権とする、あるいは非親権者が親と子供が会う権利を法が保障する。そうした方が、子どもが両親に気を使い、苦しむことが1つでも減るのではないだろうか。

 

2分に一組の夫婦が離婚しているらしい。

それだけ複雑な思いを抱えて、生活をしている子供がいるという事だ。

人間というものは、本当にどうしようもない。

どうしようもないくらい、感情に支配された生き物なのだ。 

 

 

 

夫婦不和に伴う「子供の連れ去り」問題。それが問題だとは思わなかった自分の感覚に驚いている。

東洋経済のこんな記事を読んだ。

 

 

toyokeizai.net

 

実子の片親による連れ去り問題は、国際結婚をした日本人の妻が婚姻関係の破綻と共に、実子を日本に連れ去ってしまうというケースで話題になった。

 

でもよく考えてみれば、国際結婚でなくても同じである。結婚の形態がどうであれ、配偶者の了解なく勝手に子供を連れ去る。それは紛れもなく「誘拐」だと思う。

 

しかし私は今まで、そんな風に考えたことは一度もなかった。

だからこの記事をよんでハッとした。

 

私はこれまで、母親が何らかの理由で家を出るときは、子供を連れて行くのは当然なことだと思っていた。寧ろ子供をそのまま置いていくことに、強い反感を持っていたくらいだ。

 

80代の母はよく言っていた。 

「そもそも男に子育ては無理。できるはずがない。だから母親は子供を連れて行かなくてはいけない。」

 「男はいつまででも自分の子供を持つことができる。でも女は違う」

 

すごい論理だと思う。

男性だっていつまでも子供ができるわけではないし、子育ての得意不得意があるのは男女ともに同じだろう。

 随分と一方的に決めつけるものだと思うが、少し前まで私も同じように思っていたのだから、そう主張する人を責めることはできない。

 

「男尊女卑」というものは、女性が何かと制限を受け不利益を被ってきたように言われるが、それと同時に女性が担ってきた責任や行為について、男性が口をはさむ事が許されない風潮も生んだ。

 

男が台所に入ってはいけない。

男が買い物をするなんて格好悪い。

子供にあれこれ構うのは男の仕事ではない。

家庭のことを優先するとは何事か。

 

今ではとんと聞かなくなったセリフの数々だが、少し前までそれが普通だった。その頃の習慣が、まだ意識の中に残っているのだと思う。母親による実子の「誘拐」は、昔の(今も多少残っている)男尊女卑の名残だろう。

 

*****

 

戦前から現在まで、離婚の際に子供をどちらが引き取るか。それは時代によって変わる。しかし母親・父親の違いはあっても、いつもどちらかの力が強く、片方の親に発言権が無きに等しいのは同じだ。

それなら共同親権にすればいいではないか?ハーグ条約批准国の多くは、すでにそうなっているようだ。

 

しかし…

頭ではそれが良いと分かっていても、感情がついて行かない。

何故なら共同親権は、離婚した妻や夫の現状を、子どもを介していつまでも知ることになるからだ。

 

これは精神的にキツクないだろうか?

 

私だったら、参ってしまうと思う。 子どもの成長に関わる大人は一人でも多い方が良い。子供の気持ちもある。親が強制的に片親を奪ってもいいのか?とも思う。

 

しかし…。

別れた夫の現在など、できれば知りたくはない。

(離婚はしていませんが) 

 

長くなりそうなので、この話、次回に続きます。

 

 

 

 

男の子…この悲しくも弱きもの。息子を持つ母は複雑な心境なのです。

 

男女差よりも個人差の方がはるかに大きいです。

今日の話題はそれを前提にした話です。

 

 

ついにそうなったか… 

 

先日、興味深い話を聞きました。

 

知人の中学生のお嬢さんが、

学校での出来事として、こんな話をしたそうです。

 

「<○○君はかわい子ぶってる>って友達が言うんよ。

わざと勉強ができないフリをして、

僕ってダメでしょう?ってかわい子ぶるんだって」

 

かわい子ぶる…。 

 

私は「へっ!?」

娘の話を聞いた知人も驚いたそうです。

 

いまから40年ほど前、

私たちが中学生だった頃は、

それは「女子から女子に対して」言う嫌味でした。

 

「○○は、わざとできないフリしてかわい子ぶる。

男子の前だと絶対に「できな~い」って言うんよねぇ~。」

というふうに。

 

それが今や、女子が男子に対して言う言葉になったとは。

しかもそう言われるようなことを男子がするんだ…。

 

ついにそうなったか…と、

息子を持つ母としては、非常に複雑な心境でした。

 

男子を持った母親は、

自分は女性でありながら、息子が属する男社会の心配をする。

そんなねじれた気持ちを持つ複雑な生き物なのです。

 

なにかと優秀な女子

 

「効率化」と「清廉潔白」を過剰に求める今の時代、

男子と女子がまともにかち合えば、

多くの分野で女子が勝ってしまうような気がします。

 

学校の成績でも就職の試験でも、

上から順番に採っていけば、

女子ばっかりになるのではないかと言われていたり。

大学受験の学校推薦も女子が多いそうで、

内申点も女子の方が取りやすいですよね。 

 

これまでは社会的圧力で女子を押さえつけていたけれど、

その圧力が緩くなれば、

真面目で、何でもそつなくこなすことができる女子の方が、

男子の上を行くのではないかと思うのです。

 

(出産や育児問題があるので、

圧力が完全に消えることは無いと思いますが。) 

 

以前何かの本で、

男性と女性、それぞれのIQ分布図を見たことがあります。

 

女性の場合は平均値である100の近くに、

まるで桂林の山のように集まっていましたが、

男性のIQは上から下まで、

なだらかな丘のように広がっていました。

 

ものすごい奇人変人の天才もいるかわり、

どうしようもない人間も同じ数だけいる。

それが男性のIQ分布図。

 

これも当然、

個人差の方が大きい事には違いないのですが、

このIQ図は、なんとなく当たっているような気もします。 

 

男子には厳しい時代 かも  

  

凶悪犯罪を起こす率は、

どの時代どの年代をとっても、男性の方が圧倒的に高い。

 

自閉症と診断される確率は、男子が女子の4倍以上。

 

一卵性双生児の死産率は、

男子と男子の場合が、女子と女子よりも高いそう。

ストレスへの耐性の違いではないかと言われているんだとか。

 

ストレスに弱く、

体も弱く、

融通が利きにくく、要領も悪い。

気難しくて何かとめんどくさい男子。  

 

そんな男の子の成長はジグザク道。

あっちにぶつかり、こっちに当たり、

ゆっくりと大人になっていくように思います。

すんなりいかないのが男子の特徴ではないかと。 

 

あまりに効率や真面目さを求めすぎると、

男子に必要な「無駄な時間」と「無茶ぶり」を、

社会が許してくれないような気がするのです。  

 

男の子のすごいとこ

 

でもそんな男子の無茶なところやゆっくりとした成長も、

人の世には必要なのだと思うのです。 

 

女の子は地に足がついている。

でもそうだからこそ無茶ができない。

でも無茶をしないと

「今」を超えて行くことはできません

 

ロケットで月に行こうなんて、

無茶で壮大な夢を持つことができるのも男子。

 

何が面白いのか?何の役に立つのか?と思うようなことでも、

夢中になってし続けることができるのも男子。  

 

日常のこと、

今を継続していくことには大して役に立たないけれど、

想像したこともないような未来を開いていくのは、

男の子でないとできないような気がします。  

ワクワクするような何かを創造するのは、

男の子の専売特許ではないでしょうか。 

 

誰もが生きやすい社会に

 

女の子、男の子でカテゴライズするのは、

本当は間違っているのかもしれませんね。

男子と女子はグラデ―ションのように

互いの特質が混ざり合って繋がっているのだと思います。

 

女子が生きにくい社会は、男子にとっても生きにくい。

男子が辛い世の中は、女子にとっても辛いはず。

 

お互いの特質を理解して、

おおらかな気持ちで人を見ることができれば、

それが誰にとっても生きやすい社会なのでしょうね。

 

効率化も正しさも真面目さも、ほどほどが一番。

 

と言っても、

言うは易し…難しいですよね。

私もできないからなぁ…。 

 

いずれにしても、

男子、頑張れ!

ウジウジしてないで、行きたい所へ行けばいいよ!

自分のしたいことをしたらいいんだよ!

息子を持った母は、

みんな君達を応援しているよ!